「許し」というのはとても壮大で難解なテーマです。

私は、許しは、許す相手のためではなく、自分のためのものだと思っています。

「許しは自分のためにするもの」であって、相手に非があるなら、その非は非である。といったニュアンスでしょうか。

自分のために「許す」という選択を望むなら、必要なことなのでしょう。「許さない」という選択を望むならそれもありなのでしょう。

「親を恨んでいる」「親を許せない」というご相談は多いです。

私は、許す必要はないと思っています。それよりも、自分の怒りの感情を尊重してあげる方が先決です。

自分の感情を抑圧したり、ないことにしたり、偽ることは、自分を大切にすること、尊重することではありませんよね。

許すことを望むにしても、自分のありのままの感情を認めることなしに、許すことはできないと思うからです。

許すといっても、許せない出来事は許せない出来事として、もう少し俯瞰の目(古い白黒写真を見るような目線で)で、受容はできる、といった感じなのかもしれません。

許すこと、許さないこと、どちらを選択するかも、その方の自由だと思いますし、選択する必要もないのかもしれません。

白でも黒でもないグレーゾーンを漂いながら、その都度、答えを出していく。選択していく。そして、答えを選び直すこともできる。

黄色いバラ

もし、許しを選択した場合でも、「許せた」→「幸せになった」「ラクになった」という簡単なものではないと思うのです。

許せたり許せなかったり、受容できたり受容できなかったり、そんなふうに行ったり来たりしながら、進んでいく。

そして、どんな自分もOKなんですよね。

大事なのは、自分を大切にすること。そして、自分で自分を幸せにすることに全力を注ぐこと。

「許せないから幸せになれない」なんてことはないんです。今すぐ幸せになっていい。

自分が幸せになっていくことと、少しずつ同時進行していくんですね。後からついてくるものなのかもしれません。

「変わらないと幸せになれない」というのも同様です。

「自分が変わった」→「幸せになった」「ラクになった」のではなく、少しづつ同時進行なんだと思うのです。

今のあなたでも十分いいんです。今よりもっとよくなるために、変わる選択を望むのなら、自分の意志で変わるということです。

「変わらないと幸せになれない」のは、今の自分いじめにつながってしまいます。

まずは、自分を大切にすること。そして、自分で自分を幸せにすることに全力を注ぐこと。

その先に、どんなあなたがいるのでしょうか。

許せない誰かがいる。
許したくても許せない。
絶対に許せない。

それもOK。

それよりも、まず、自分で自分のことを許せていますか?

許せない誰かがいる自分を許せていますか?
今の自分を許せていますか?