コロナウイルスの流行で、私の母はとても不安がっています。母は、小さい頃から体が弱く、幼稚園もほとんど通えなかったと聞きます。
肺炎も過去2回ほど罹患しており、レントゲンでは組織が石灰化しているところが写るそう。しかも昨年肺炎になったばかり。余計に毎日が不安でいっぱいになるのは当然だと思います。

外出を自粛し、家でもマスクをして、手洗い・うがいを徹底し、栄養・睡眠をとるなど最大限努力したら、あとは祈るのみ。私はあまりの不安ぶりと、私への監視が強いのでちょっぴり「いつまでこのような状態が続くのだろう」「かえって免疫力が下がるのでは」と思ってしまったのです。対人支援者として反省し、安心させてあげなくてはと「大丈夫、きちんと対策は実行してるからね」と言うように心がけました。

そういう状況の中なので、コロナとは関係なくても、私の仕事に関してなど、「もし○○○になったらどうするの?」という心配起点からくる母の言動のすべてが気になるようになってしまいました。あまりに心配されると、「母に心配をかけている罪悪感」という重い足かせをされているような気分に。

母娘癒着、共依存を乗り越えたのはもうずっと前の話。私はすぐに気持ちを切り替えました。私が向かいたい方向性は、「私は責められるべき悪い子」ではなく「幸せのリーダーシップをとること」です。「母はとっても繊細な性格だし、小さい頃から体が弱くて、きっと思い切ったチャレンジをするのも難しかったに違いない。私は、母の分も思い切ったチャレンジをすることで、母を前向きな世界へ連れて行こう。私が罪悪感で踏みとどまっていてはいけない。」と。

とはいっても、今まで私の挑戦を支えてくれたのは母。いつも見守って、心配しながらも好きなことをさせてくれた母。
今、私は新しいチャレンジに踏み出そうとしているのに、いろいろな事情でできていない自分がいました。不安な自分もいました。それら「私の内側」を見せてくれたのがたまたま母でした。母だって本当は、繊細さもあれば強さもあり、大胆なことだってできる人なんです。

他人も自分も、常に連続的に変化をしており、誰しもが多面的であり、見ている・感じているのはその中の「点」でしかありません。だからこそ、「他人に対しての認識」は、自分の心の中を写す鏡なのだと思います。

あの人をあの人たらしめているのは、私の内側の意識。他人は、自分の内側を見せてくれる存在です。

感情が湧くのは人間なので仕方ありません。その感情は、私に何かを気づかせてくれる、本音を教えてくれる大事なきっかけ。だから無視しないで、他人が見せてくれたものを通して、自分と向き合うことを心がけたいものです。

そして、他人を決してジャッジしたり決めつけないこと。
他人も、私も、ただ「在る」存在。いつでも、調和の世界を選択していたいと思います。