私たちはみな、多かれ少なかれ悩みを抱えています。
ですが、自分にとっては深刻な悩みなのに、他の人にとっては「なんでそんなことで悩んでいるの?」という事柄だったりすることもあり、興味深いですね。

自分はこうありたい、こうあるべきだ。
その「理想」と「現実」のギャップが、悩みをもたらしています。

例えば、「学校で友達ができない」という悩みを持っている人がいたとします。

ここで私の好きなミュージシャン、甲本ヒロトさんの言葉を引用しますね。

質問:学校に居場所がない子に言ってあげられることはありますか?

ヒロト「居場所あるよ。席あるじゃん。そこに黙って座ってりゃいいんだよ。友達なんていなくて当たり前なんだから。友達じゃねぇよ、クラスメイトなんて。たまたま同じ年に生まれた近所の奴が同じ部屋に集められただけじゃん。」

「趣味も違うのに友達になれるわけないじゃん。山手線に乗ってて、『はい、この車両全員仲よく友達ね』って言われても、『いや、偶然今一緒に乗ってるだけなんですけど』って。友達じゃねぇよ。」

「ただ、友達じゃないけどさ、喧嘩せず自分が降りる駅まで平和に乗ってられなきゃダメじゃない?その訓練じゃないか、学校は。友達でもない仲よしでもない好きでもない連中と喧嘩しないで平穏に暮らす練習をするのが学校じゃないか。だからいいよ、友達なんかいなくても。」


いやあ〜、ほんとうにロックンロールでかっこいいです・・・

そうなんです、「友達なんていなくてもいい」んです。

「学校では友達と仲良くしなければならない」
「友達がいるのはよいことだ」
「一人でいるのは恥ずかしいことだ」
「周りから変な奴だと思われるに違いない」

・・・

私たちは、無意識のうちに身につけてしまった「普通はこう」「こうあるべき」といった価値観を基準に生きていて、ときに、それが足枷になってしまうのですね。

もちろん、いい面もあるんですよ。

共通認識があることで、みんなで同じ方向を向くことができたり、荒波を立てずに過ごすことができたりする面もあるでしょう。

でも、それが「正しいかどうか」は別なんですよね。

ある国では、出されたものは残さず食べることが常識。でも他の国では満足したことを表現するために少し残すことが常識だったりします。


ということで、自分が苦しめられている価値観に対して、「それ本当?」を問うてみるのもおすすめです。


他の例として、

子育て中のママは、価値観が揺らぎやすいかと思います。


「子どもを最優先で人生設計を立てるべき」
「子どもは3歳までしっかりと母親がそばでみているべき」
「女性もバリバリ働くべき」
「男女平等で仕事をするべき」


いろんな「べき」が頭の中を巡ります。
でも、すべての「べき」を両立することって難しいんですよね。

特にこの、多くが核家族なのに長時間労働が蔓延している日本では。

なので、

いや待てよ、そもそも本当に3歳までどこにも預けないことがよいことなの?
そもそもバリバリ働くことがよいことなの?

など、いろいろ考えを巡らせながら、落とし所を見つけていくわけです。


「ゴミはゴミ箱に捨てるべき」は覆しては困りますけど(笑)

人様に迷惑をかけることでなければ、その「べき」は覆してしまっていいんですよね。
自分が前向きに生きられる選択をし、その都度価値観をアップデートする。

そんな、柔軟性が生きやすさにつながっていくのかな、そんなふうに思うのです。


その中で、冒頭の甲本ヒロトの名言「友達はいなくていい」みたいに、


常識を疑え


ってこともあるかもしれません。



私の中にも、いろいろな「べき」があります。

私は仕事の中で「社会貢献」「やりがい」を重視していた時期がありました。

今でも、重視はしているんですけど、一時期よりは「ゆるんだ」感じがあります。

だって、本来、自分は何の役に立ってなくてもOKなただの生命体ですし、やりがいなんて大袈裟なことを感じなくても、コツコツ目の前にやるべきタスクがあることが心の支えだったり、周りの人と良好な関係を築けていることが快適だったりもするわけです。


いいんですよ、そのときそのときで、アップデートしていけば。
あ、アップデートという言葉も語弊があるかな。


そのときそのときで、いろんな自分を選択していけばいいと思うんです。


今はこんな自分で生きていく。


そんなふうに、軽やかでいいと思うんです。


今、どんな「べき」や「価値観」がありますか?

もちろん、それはあなたをこれまで動かしてきた、大切なもの。


でも、もし苦しくなってきたら、ゆるめちゃっていいんです。

「それ本当?」


ちょっと疑ってみてもいいかもしれません。